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悪い魔女と不幸な王子

by 桐野りの

置き去りにされて1時間。

10歳になったばかりの王子の体に、雪はどんどん降り積もっていきました。

「……天国でお母さまに会えるかな」

王子が小さくつぶやいたとき、吹雪の中を髪の長い女の人が、こちらに向かって歩いてくるのが見えました。

「お母さま?」

女は王子の傍にしゃがみ込み、そっと白い手を伸ばしてきました。

「お母さま……会いたかった……」

しかし頬に両手が触れた途端、王子はハッとしました。

(なんて冷たい指なんだ…この人、お母さまなんかじゃない……!)

「誰?!」

吹き付けてきた突風が、黒いフードをまくりあげ、あらわになった女の顔に王子は息を呑みました。

王室の中には女性が沢山いましたが、その全てを忘れてしまうほど、その人は美しかったのです。

「私の名前はグリンダ。この森を統べる、偉大な魔女」

女は表情を変えずにそう言いました。

『森の魔女グリンダは太った子供が大好物。眼と眼があえばもうおしまい。豚にされて一口さ』

召使いたちが歌っていたわらべ歌が頭の中に蘇り、王子は慌てて魔女から目をそらそうとしました。

しかし時はすでにおそく、魔女は王子の青い瞳を、ジーッ、と覗き込んできたのです。

「生きたいか?」

王子は両目を見開いた後、ゆっくりと首を振りました。

「生きたくなんかないよ。僕なんて生きていても仕方ないもの」

魔女の眉根がぐっと上がりました。

「ずいぶん可愛げのないセリフだねえ。子供のくせに100を超えた年寄りみたいに、諦めきった目をしている」

ふわっ、と体が宙に浮き、王子の服からどさどさと雪の塊が雪面へと落ちました。

「な、なにすんの!」

「私は絶望にひしがれた人間が大好物でねえ。気に入った。うちで飼ってやる」

魔女は王子を横抱きにすると、雪を踏み締めながら、ゆっくりと歩き出しました。

おかしなことに、グリンダと王子の周りだけは、見えないベールがかかっているかのように雪が避けていきます。

(本当に……この人は魔女なんだ。バカだな、僕は。魔女を母さまと間違えるなんて)

「僕を食べるなら眠っている間にして……」

弱々しい王子の申し出に、グリンダは楽しげに笑いました。

「おやおや、ずいぶんあきらめの良いことだ。命乞いはしないのかい?」

「そんな気力、残ってないよ……」

王子はそっと目を閉じました。

「ん……んん」

王子の目に丸太で組まれた天井と、黄色い目の黒猫が飛び込んできました。

「おや、お目覚めですな」

「黒猫が喋った!」

王子は半身を起こして、ケットを手繰り寄せながら叫びました。

慌てている王子とは裏腹に、黒猫は落ち着き払った表情で、慇懃に頭を下げました。

「はじめまして。私はグリンダさまの召使い、セバスチャンと申します。お見知りおきを」

王子は森で会った魔女の美しい顔を思い出しました。

「ここ……魔女の家なんだ」

「さようでございます」

「なんだかずいぶんスッキリしてる……」

「グリンダさまはきれい好きですから」

王子の額に柔らかな肉球が押し当てられました。

「熱は下がっておりますな。王子さま、あなたは三日三晩、眠りっぱなしだったのですよ。まあ、せんのないことです。ここに運び込まれたときの王子さまときたら、冷え切って今にも死にそうでしたからな」

氷のように冷たく感じたグリンダとは違い、セバスチャンの瞳は穏やかで、王子の心は次第に落ち着きを取り戻してきました。

「セバスチャンが寝巻きに着替えさせてくれたの?」

「いいえ。グリンダさまが。魔法の力で」

「僕が王子だってことも、魔法で調べたの?」

「それは」

セバスチャンが答えようとした時、ドアが開き、凍りつくような冷たい空気とともに、魔女グリンダが入ってきました。

「質のいいシルクのシャツに金ボタン。痩せてるけれど色艶のいい肌。とどめはピカピカ光る頭の冠ときてる。ただの迷子じゃないのは一目瞭然。魔法なんざ使うまでもなかったさ」

王子はまじまじと魔女を見つめました。窓からの朝日に照らされた顔は、恐ろしいほどに綺麗です。

「グリンダさま、おはようございます」

魔女は頭を下げるセバスチャンの横を大股で通り過ぎると、ベッドの傍に立ち、王子の体からケットを一気にはぎ取りました。

「雪はやんだよ。城まで送るからさっさと支度しな」

「え? 僕を食べないの?」

王子はきょとんとした顔でグリンダの目を見返しました。

「森の中では美味そうに見えたがよく見りゃガリガリ。私の口には合わないよ」

(よかった……食べられるのは、やっぱり嫌だ……)

内心ほっとしながらも、王子はグリンダに訴えました。

「お城じゃなくて森に戻してよ。あの大きなもみの木の根元にもう一度僕を捨ててきて。そもそもどうして僕を助けたのさ。あのまま死なせてくれればよかったのに」

「王子さま。グリンダさまは……」

たしなめようとするセバスチャンを、グリンダが押し止めました。

「セバスチャン。朝食の支度を」

「ですが」

「いいから行きな」

「かしこまりました。失礼いたします」

セバスチャンは一礼すると、部屋を出て行きました。

「さてと」

グリンダは改めて王子に向かうと、ほっぺたを片手で掴み、締めあげました。

「いたたた」

「……このグリンダさまに食ってかかるとは。たくましいのか、ただのバカなのか」

「離してよ」

もごもごした声で王子はそう言い返し、魔女の攻撃を振り払いました。

魔女は腕組みをすると、冷ややかな表情で言い放ちました。

「大人たちに愛されて、ちやほやと甘やかされた、幸せいっぱいの王子さまは、恐怖と言うものを知らないようだ。本物の恐怖を知らないから、平気で命を捨てようとする」

「愛されて甘やかされた? 幸せいっぱい? この僕が? 笑っちゃう」

「違うのかい?」

「違うよ。全然違う」

王子は叫びました。

誰かにこんな風につっかかるなど、王子にとっては初めてのことです。しかも相手は、恐ろしい魔女。

ですが、どうしても止められません。

体の奥深くからふつふつと湧き上がってくる、凶暴な感情を抑えきれず、王子は強く拳を握りしめ、強い視線でグリンダをにらみつけました。

「幸せな子供なんかじゃない……それどころか、僕は……世界で1番不幸な子供だ」

「その理由は?」

魔女は片頬を上げてニヤリと笑い、スツールに腰をかけました。

「僕が生まれた10年前、父さまも母さまも大喜びだったらしい。結婚して15年ぶりに生まれた初めての子供だったから」

「10年前……ああ、それなら覚えている。昼間から花火の音が何発も届いて、森の動物たちが怯えていた。あれはお前が生まれた日だったのか」

「うん。きっとそう」

王子はうなずき、話を続けました。

「でも、母さまが3年前に病気で死に、新しい王妃を迎えた頃から、父さまはちっとも僕を見なくなった。新しい王妃の言いなりで、王妃は僕を嫌ってた。僕は子供部屋から屋根裏部屋に移されて、とうとう森に捨てられた。僕は父さまの子供じゃない、って王妃が父さまに進言したのさ」

「ずいぶんおかしな話だね。たとえ寵姫が進言したところで、理由もなく、そんな話を信じるもんかね」

「王妃は神の石を持っていた。真実を語る赤い石……それが僕を偽物の王子だって言ったんだ。もちろんデタラメに決まってる。でも、父さまも家来たちも、みんな石の声を信じたんだ」

グリンダは弾かれたように立ち上がりました。

「神の石だって? もしや、これのことじゃないだろうね」

グリンダがさっと右手を上げると、王子の目の前に赤い小さな石が浮かび上がりました。

「そう。これが神の石だよ。世界に1つしかないらしいのに、なんでグリンダが持ってるの?」

王子はとっさに石へと手を伸ばしました。しかしか細い指は石があるはずの場所をするりと通り抜け、何も掴むことができません。

グリンダがパチンと指を鳴らすと、赤い石は跡形もなく消え、王子は両目を丸くしました。

「なるほど……そういうことかい。ふふふ。あの女も懲りないねえ」

王子がはっとして顔を上げると、グリンダは声を殺して笑っていました。

「くっくっ……まさかこんなところであいつの居場所がわかるとは……運命とは面白いもんだね」

王子は思わずその笑顔に見とれました。グリンダがなぜ笑っているのかわかりませんが、とても美しい笑顔だったのです。

「なんだい? 人の顔をジロジロ見て」

視線に気がついたグリンダが、眉をひそめました。

「べ、別に……グリンダが変な声で笑うもんだから」

王子は顔を赤くして言いました。

「とにかく、そういうわけだから。僕が運命に絶望する理由がわかったでしょ?」

しかしグリンダはあっさりとこう言いました。

「いや、全然」

「え?」

「お前は私にとって相変わらず甘ったれた子供だよ」

「あのね、僕の話、ちゃんと聞いてた?」

「ああ。聞いたさ」

冷たい手に手首を握りこまれ、王子はぶるリと震えました。

「お前には立派な手がある。この手でどんなものだってつかめるだろう。二本の足もついている。この足でどんなところにでも歩いていける。このおしゃべりな口でなんだって食べられる。お前は全てを手に入れている。これ以上何が必要だい?」

「……愛さ……僕には愛が足りない」

「愛だって。世界で1番無駄なものを、お前は欲しがっているんだねえ」

王子は彼女の手を振り解きました。

「グリンダは……魔女は、愛が欲しくないの?」

「私は力さえあればいい」

グリンダはきっぱりと言い放ちました。

「私は力が欲しい。世界を統べる特別で強大な力が。それに比べりゃ愛なんてゴミだ」

王子は口をぽかんと開け、まじまじと魔女を見つめました。

「グリンダには人の心がないの?」

「私は人じゃない。魔女さ。最初からそう言っているだろう」

グリンダがパチンと指を鳴らすと、王子の体から寝巻きがはじけ飛び、室内着へと変わっていました。

「気が変わったよ。当初の目的どおり、これからお前を飼ってやる。私に拾われて幸運だな。セバスチャンの料理は絶品だ」

「料理なんていらないよ!」

そう叫んだ瞬間、ドアの隙間から、スープの匂いが忍び込んできて、王子のお腹はグーっとなりました。

グリンダはニヤリと笑いました。

「口より体の方が正直さ。あんたの体は生きたがってる」

「ちが……!」

いきりたつ王子の額にグリンダは人差し指を当て、こう言いました。

「死にたがりの坊っちゃんに、生きる目的を与えてやる。私がお前の父親を殺す。お前の恨みを晴らしてやる」

「えっ?」

「寵姫の戯言を鵜呑みにし、お前を捨てた父親を、このグリンダさまがいつか必ず殺してやる……その日を楽しみに生きてみな」

唖然としている王子を部屋に残し、グリンダは出て行きました。

「グリンダが、僕のお父さまを殺す?」

心臓がどくん、と大きな音を立て、王子は思わず部屋を飛び出しました。

「待って、グリンダ。僕は別に恨んでなんか……」

それが2人の出会いでした。

寒い冬のことでした。

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